おまけ

これから先に記されている投稿は私のおかげ(せい?)で一人間の人生を変えてしまったという悲しいお話です。

この物語はフィクションです。真似をして食当りなどを起こさないよう、お願い致します。

登場人物
私(アモキン) 日本を代表する情報企業、モカソフトの社員
タキスチャン アモキンの後輩、ラーメン博士号を持つ
アンドリュー アモキンの親友、小中高共に同じ学校で過ごす
オードリアン アモキンの親友、同じ高校で過ごす

この物語を小池さん、及びその関係者(某おばけなど)に捧げる

〜序章〜
ラーメンというものは不思議なもので、別にそんなに好きではなかったはずなのに
徐々にその魅力に取り憑かれていってしまう。私もその一人だ。
以前(といっても数ヶ月前だが)はラーメンといっても別段反応は示さず、特に食べたい
とも思わなかった。他にいろいろと気を取られていたせいもあるが。
ただ、ラーメンが嫌いと言うわけではなかったので会社の同僚に誘われると食べに
行く程度の物でしかなかったに、こんな事になるとは思ってもいなかった。

〜タキスチャンの罠〜
タキスチャンはラーメンに関して独自の情報網を構築しており、関東周辺の主立った
ラーメンショップの場所、系統を調べ上げていた。だがやはり人間は自分の好きな
ものに偏ってしまう生き物であり、タキスチャンはこってり味が好きな事もあって
ピックアップされてくるラーメンショップのほとんどがそういうものであった。
私は元々さっぱりしたものが好きだったので、苦痛の伴う食事が幾度か続いた。
自分で美味しいと信じているラーメンショップに比べて数倍、いや数十倍の油が入っている
と思われるラーメンを食す時のえもいわれぬ苦痛、そして敗北感が私を襲っていた。
しかし私の舌に絶妙な味加減を感じさせるラーメンも少なくはなく、幸福感に満たされた
夜を過ごした事も多々あった。この幸福感が始まりだったのだ。

〜人間の性(サガ)〜
人間というものはとても順応性が高い生き物だ。たとえ前の環境と今の環境が
天と地ほどの差があったとしても時間が解決してしまう。今の環境が苦痛であった
としても、だ。これは環境に限らず、どの面をとってもそういうものなのだ。
最初のうちは嫌だ、駄目だ、と言っていても最後には自分から求めてしまう、
そんな悲しい自分を見つめる事になったのだ。

〜絶望〜
以前に来店した時はちょうど良い油加減、味で私を大いに満足させてくれた
ラーメンショップがあった。タキスチャンはこの店に行った事がないので、連れて行った。
以前と変わらない風体、雰囲気、そして店員の方々。あぁ、また楽しませて
もらえるのか、といろいろな想いを秘めて食したのだが…
「おかしい、なにか足らないんじゃないのか?」
私の心が訴え続けたまま事を終えた。味が以前と全く違っていたのだ。
オードリアンに尋ねても前と味は変って無いという。
「前と同じこってりじゃないか」
オードリアンの言葉に何か不自然なものを感じた。

「これ以上こってりだと駄目だ」 これ以上のこってり?全くのあっさりスープじゃないか!
何を言っているのかわからない。以前はこんなにあっさりじゃ無かったはずだ。
だが、オードリアンはこのラーメンショップに通っている常連だ、言うことに違いはない。
だとすると変ったのは自分の味覚ということだ。
嫌だ、認めたくない!、俺は以前と同じなんだ!
魂の叫びが私を食い尽くそうとしていた。
だが現実はこってり味に飼い慣らされた自分がここに居たのだ。

〜覚醒〜
最近の生活を見つめるとラーメン摂取率が非常に高くなっていることに気づいた。
特に今年に入ってから急激にラーメンショップに足を運ぶようになっていた。
以前は他の事に夢中になっていたのでそんなことは無かったのだが、
夢中になるものを失った人間とは脆いもので(私だけかも知れないが)、群れたがるのだ。
集団行動になると、深夜の暴走行為にふけった後に食事を取りながら雑談をする
訳だが、なにぶん深夜なので軽めの食事ということでラーメンショップに足が
向いてしまうのだ。単にラーメンが食いたかったという話もあるが。
仕事帰りにもラーメンの旅が食い込んできた。
勤め先の立地条件のせいもあるが、横浜にラーメン信奉者の聖地とも言えるもの
がある。そこに立ち寄る事もあり、私やタキスチャンの自宅近辺のラーメンショップ探求に
赴くことも珍しい事ではなくなってきてしまった。
この時期、私にとってラーメンは「食べるもの」から「食べたいもの」に変化してきたのだ。

〜評論会〜
とある日、アンドリューお勧めのラーメンショップに連れていってもらった。もちろんタキスチャンも一緒にだ。
とんこつ味がベースになっているとのタキスチャンの情報があったので、心を躍らせてラーメンが
出てくるのを待っていたのだが、どうも香りがとんこつと異なっているのに気が付いた。
タキスチャンも気になったらしく、作っている様子に目を奪われていた。
(タキスチャンは独自の情報網に流す為に探求精神が旺盛なのだ)
出てきたラーメンにはとんこつ特有の白い濁りがなく、香りもとんこつのそれとは違っていた。
「これはあっさりトリガラ味がベースだ」
私はこういう結論に達した。ただ、決して不味いものではないのでもくもくと口に運ぶ、
なんとも言い難い時間が過ぎていった。
店を出てから例によって品評が(このころになるとそういう話が好きになっていたのだ)
始まったのだが、どうやらタキスチャンも同じ意見に達していたようだった。
とりがら味に気づくのは別になんともない事だ。だが「あっさり」と感じる舌は
スープ油の許容量がタキスチャンと同じにものなっている事実がこの時はっきりと露見したのだ。
別にそれは悪いこと出はない。だが探求心が芽生えてしまった私は
次の獲物を探す豹のごとく、次なるラーメンショップを探す事になるのだ。

〜レボリューション(進化)〜
思い立ったら実践する、これが私の信条だ。何に関しても実践はしている(衝動買いもこれが原因だ)。
ふと仕事中、以前食べに行った地獄のような油量のラーメンを今食べたらどうなるだろう?と思った。
帰路につく中、乱立するラーメンショップのなかで立ち寄ってみたい場所もいくばかあったのだが
目指しているのは思い出の深い例のラーメンショップだった。
一人でラーメンを食べに行くのは初めてだったので、面接をするときの緊張のようなものを
持っていたが、オーダーをして待っている間に吹っ切れたようだった。
何か大切なものを失ったような気もしたが、食欲でねじ伏せてしまった。
初めて口にした時は三途の河が見えそうな味だった記憶があったために
ラーメンがテーブルに置かれたときは神妙な表情をしていたかもしれない。
「食える、別に苦痛でもなんでもないじゃないか」
その時、一種の感動が全身を駆け巡った。
以前食べた時は食前、食中、食後において不快感をともなうものだったにも関わらず、
問題なくラーメンを口に運んでいたのだ。
当然ラーメン自体は見た目、味ともの変っていない。私が変ったのだ。
いや、これは進化したとも言えるべき症例だろう。
食べ終えたあとに残ったのは不快感ではなく満足感だった。
人間は生物の最終形態とも言われるが、進化する余地は十分に残されているのだ。

〜行きつく場所〜
最近目が落着かない。前からもそうだったが、理由が変化してきた。
どうやら潜在意識の構成が組み変ったようだ。今までは友人と共に無意識のうちに
婦女子を目で追っていたのだが、私はその対象がラーメンショップへと変ってしまったようだ。
意識的に覚えている訳ではないので、詳しく情報を得るものではないが、
ぼんやりと場所を記憶しているのだ。
少し前にも思ったのだが、私はデジャブー現象を感じる回数が多い。
口に出す訳ではないので周囲は気づかないだろうが、ありとあらゆる場所でそういう
体験をしているのだ。それがラーメンショップでも発現するようになってしまった。
普通そういう体験をする場合、興味のある事柄や親しい友人といるときなどに起こる
物だ(と私は思っている)が、それが事もあろうにラーメンショップで起こったのだ。
普段の生活で無意識のうちにラーメンを探し、深層心理の行動でさえラーメンに関わってきた。
私は数ヶ月の内に立派なラーメン・ジャンキーになっていたのだ。

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